小さなかゆみが国際問題になりかけた午後

小さなかゆみが国際問題になりかけた午後

【小鼻と誤解と上品な悲鳴】

ずいぶん昔の話になるけれど、今日ふとした瞬間に思い出して、一人で声を出して笑ってしまったことがある。
思い出した瞬間に、あの時の情景が脳裏に鮮明に蘇ってきて、なんとも言えない恥ずかしさと可笑しさが同時にこみ上げてきた。思い出って、時には時間を飛び越えて、今の自分を笑わせに来るんだから、実に厄介で面白い。

あれはたしか、アメリカ・カリフォルニア州のサンノゼに住んでいた頃のこと。
当時、僕はパイロットの訓練を受けていて、サンノゼ空港から訓練機に乗ってフライトを終えた帰り道の出来事だった。

その日も朝から天気が良く、雲ひとつない青空の下での訓練フライトは実に爽快だった。エンジン音に耳を澄ませ、視界いっぱいに広がる空と地平線を確認しながら、決められたルートを飛ぶ。まるで空と対話しているようなあの時間は、何物にも代えがたい贅沢だ。

飛行場に戻り、機体のチェックを終えてから車に乗り込み、自宅へと向かう。
車内にはFMラジオからゆったりとしたジャズが流れ、フライト後の充足感とともに、ぼんやりと景色を眺めながら運転していた。

すると、突然――右の小鼻がかゆくなった。

本当にどうでもいいことなのに、こういう時に限ってなぜか我慢できない。手元にティッシュもないし、鼻水が出ているわけでもない。ただ、もうとにかくかゆい。どうしてこんなタイミングで?と思いながら、仕方なく右手の人差し指で掻きながら運転を続けていた。

最初は軽く、くすぐる程度だった。でも次第にそれでは収まらなくなって、徐々に力が入り、気がつくと結構な勢いで小鼻をゴリゴリと掻いていた。おかげでかゆみは引いたものの、今度は“ヒリヒリとした痛み”が残ってしまった。
なんだか馬鹿みたいだなと苦笑しつつ、今度はその掻きすぎた小鼻を指でやさしく撫でながら、車を走らせていた。

すると――ちょうど前の信号が黄色から赤に変わり、僕は交差点の手前でブレーキを踏んで停車。鼻を撫でながら、ぼんやりと信号が青に変わるのを待っていた。


その時だった。不意に、鋭く、そして妙に重たい“視線”を感じた。

まるで針のような視線が、左の頬に突き刺さる。え、なに? と、思わず視線を送ると、そこには、左側の車線で停まっている車が一台。
その助手席――いや違う、運転席だ。運転席に座っているのは、白人の中年女性。髪はきちんとまとめられていて、パールのイヤリングが揺れていた。服装も上品で、どこかのマダムといった雰囲気を漂わせている。

しかし、その美しい見た目とは裏腹に、彼女の表情は鬼のようだった。

目を大きく見開き、眉間に深々としわを刻み、口をへの字に引き締めながら、全力で僕を睨んでいる。…というか、完全に「ドン引き」している。いや、違うな。これは「軽蔑」だ。完全に見下している。

その瞬間、僕は悟った。

「あ、やっちまったな」

彼女の視線の先には、まだ小鼻を撫でている僕の指。
そう――彼女は勘違いしている。僕が“鼻をほじっている”と。しかも、信号待ち中、堂々と、なんのためらいもなく、やってのけている野蛮な男だと。さらにおそらく、見た目からして僕がアジア人だということにも気づいていたに違いない。

これはまずい。これは非常にまずい。
このままでは、僕個人の名誉だけでなく、日本人、いやアジア人全体の評判を落としかねない。ここはなんとしてでも誤解を解かねばならない…!

しかし、手っ取り早く「違うんです、これはですね、小鼻がかゆくてですね…」と説明するわけにもいかない。窓は閉まっているし、声をかけるわけにもいかない。かといって、今さらやめたところで、時すでに遅し。彼女の中では、すでに「鼻ほじり男」として認定されてしまっているのだ。

悩んだ末、僕はとっさに行動に出た。

――指を舐めた。

そう、人差し指をそっと唇に運び、そのまま「チュバッ」と音を立てて、まるで“これは美味しい何か”を味わうかのように、丁寧に、そしてしっかりと舐めて見せた。

そして、決め手はそのあとだ。
その女性の目をまっすぐ見つめながら、満面の笑みで「ニコッ」と微笑み、ウィンクを一発。完璧だった。演技としては、もはやオスカー級。

一瞬、時間が止まったような感覚。
そして次の瞬間――彼女は叫んだ。

「OH MY GOD!!!」とでも言っていたのだろうか。
窓越しにも関わらず、彼女の悲鳴は鮮明に、まるでサラウンドスピーカーで聞いたかのように車内に響き渡った。顔は真っ赤になり、両手で顔を覆い、まるで世界の終わりを見たかのような表情だった。

そのタイミングで、まるで映画のラストシーンかのように、信号が青に変わった。

僕は静かにアクセルを踏み、何事もなかったかのように車を進めていった。
もちろん、バックミラーには一切映らないように気をつけながら。

あれから何年も経ったけれど、今でもときどき、あの彼女の顔を思い出す。
そして、またひとりで笑ってしまうのだ。

Related posts

Leave A Comment

Newsletter

Receive the latest news in your email

Recent comments

    好奇心を、もう一歩先へ。EC CONNEXIONは、世界の良いモノを日本と世界のお客様へ届けます。

    Contact Info