夕暮れの街へひとり冒険
夕方、ゆっくりと赤みを帯びていくヘイワードの空。
西の空にうっすらと沈む太陽が、どこか異国情緒を帯びて見えた。
機内食を食べて以来、何も食べておらず、頭の中はぼんやりとしていたけれど、それでもなぜか心は落ち着かなかった。
体を休めるよりも、なにか行動しないと“今、自分がアメリカにいる”という実感が持てなかったのだ。
「ちょっと外、歩いてこようと思います」
福田さんにそう声をかけてから、そそくさと寮の玄関を出た。
もちろん、足は徒歩しかない。車なんてまだ無いし、そもそもバスの路線図だって読めない。
それにしても、外の空気はどこか乾いていた。カラッとしていて、どこか懐かしいような香りもある。
……が、正直、怖かった。
アメリカは危ない──そんな情報を、日本にいたときから散々聞かされていた。
拳銃を持った人が突然現れて強盗に遭うとか、通り魔的な事件が起こるとか、いろんな“都市伝説”じみた話が、頭の中でリフレインしていた。
「頼むから、今日だけは何も起こらないでくれ」
そんな祈るような気持ちで、僕は見知らぬ道を歩き出した。
歩きながら、最初に気づいたのは「距離感」だった。
日本の感覚で「あの建物、すぐそこだな」と思っていても、全然近づかない。
歩けど歩けど、その建物はなかなか大きくならない。
「え?さっきから3分は歩いてるよね?……まだ半分も来てない!?」
道も、歩道も、車道も、空も──何もかもがスケールでかすぎて、感覚がバグってくる。
そうして数ブロックほど歩いたところで、やっと小さな建物が目に入った。
ネオンがうっすらと灯っている。
店先には、いかにもアメリカ映画に出てきそうな、大きなコンボイが駐車していた。
その時点で、もう「アメリカ来たなぁ……」と感動。
ドキドキしながらも、そのドアを押した。
アメリカンバーでの“国際交流”
中は、思ったよりも静かだった。
暗めの照明。バーカウンターの奥には鏡と酒瓶がずらりと並び、クラシックロックが流れている。
客は2、3人。それぞれが一人でグラスを傾けていた。
僕はというと、完全に“ビギナー”の表情だったに違いない。
恐る恐るカウンターに座り、「ビール、プリーズ」とだけ伝えた。
バーテンの兄ちゃんが軽くウィンクして、笑顔でビールを注いでくれた。
そして、グラスを手にした瞬間だった──
隣から、低い声が聞こえた。
「Hey, you Chinese?」
僕を見ているのは、ひげ面の大男。
肩幅広すぎ。Tシャツがピチピチ。なんだか目が鋭い。
だけど、その目の奥に、少しだけ好奇心みたいなものが見えた。
むっ……。
「Japanese.」
少しムッとしながら答えた。
そして、片言の英語で自己紹介を始める。

「I’m from Japan… I came to get a pilot license… today is my first day… I live near here.」
すると彼がニヤリと笑った。
「You said mansion?」
「Yes… mansion.」
「Rich man, huh?」
は? なんでそうなる?
……と思ったら、すぐに思い出した。
アメリカで“mansion”というと、“豪邸”を意味する。
「No no, not rich! Just small apartment!」
慌てて否定すると、彼は腹を抱えて笑い始めた。
「Relax, man. I’m just joking!」
その瞬間、僕もようやく少しだけ笑えた。
緊張が、ふっと抜けていくのを感じた。
巨大コンボイと5円玉
「You wanna see my truck?」
そう言って彼が立ち上がる。
外に出てみると、駐車場に停まっていたコンボイが、まさに彼の愛車だった。
「This is mine.」
……デカい。

しかも運転席が信じられないほど高い位置にある。
彼はドアを開けて、「Sit down!」と促してくれた。
恐る恐るハシゴを登って、運転席に座る。
「うわ……映画の中だ……」
思わず口からこぼれた。カメラを持ってくるべきだったと、心底後悔した。
何かお礼をしたくて、僕はバッグの中から、あらかじめ用意していた“日本のお土産”を取り出した。
それは──5円玉。
「This is Japanese coin. It’s lucky.」
彼はそれを手に取って、しげしげと眺める。
「Hole? Cool.」
どうやら気に入ってくれたようだ。
……が、なぜか僕は、その勢いで“もうひとつの土産”を差し出してしまった。
コンドームだ。
「Here. Souvenir.」
彼はきょとんとした顔で受け取った。
そして、目の前でパッケージをビリッと破く。
中身を見た彼は、次の瞬間──
爆笑。
「Too small!! This is for kids!!」

いや、君のサイズがおかしいだけだ。
身長2メートル、肩幅1メートル超。
日本の平均サイズが、通用するわけがない。
彼の笑い声が、バーの薄暗い空間に響き渡る。
それは、あたたかく、なんだか心地よい笑いだった。
はじめての“居場所”
言葉は不自由。
文化も違う。
だけど、それでも繋がれる瞬間ってあるんだ。
たとえ5円玉とコンドームでも。
それが、“アメリカでの最初の夜”だった。
寮に帰る足取りは、思いのほか軽かった。
つづく。
